ヒストリー

第2話

フランク・キャプラ、その才能の発掘

中短編作品での成功を基盤にCBC(SPE前身となる初代の会社)は1922年、予算2万ドルで会社設立以来初の長編作品を製作した。この作品『More To Be Pitted Than Scorned(原題)』は大成功を収め、13万ドルの興行収入をもたらした。CBCは、より大きなビジョンを持った映画製作に社の未来があると痛感した。

1924年CBCはコロンビア・ピクチャーズ・コーポレーション(以後、コロンビア映画)として会社法人組織となり、いくつかのオフィスをハリウッドのサンセット大通り(Sunset Boulevard)とゴーワー通り(Gower Street)が交差する一区画に開設した。この地域は俗に「貧乏会社通り」と呼ばれる低予算映画会社が並ぶ場所であった。巣立ちしたばかりの新会社の映画製作活動は、年ごとに新たな発展を遂げ、成長していった。

大変換へのきっかけとなったのは、1927年、映画監督フランク・キャプラの発掘である。フランク・キャプラはコロンビア映画初の全編トーキー(無声映画に対し音声つきの映画)作品『ドノヴァン(The Donovan Affair)』(1929)を製作。以後、監督としての彼の才能はコロンビア映画に数々の“初めての成功”をもたらした。その頂点となったのは、初のアカデミー賞®最優秀作品賞を受賞しただけでなく、主要5部門(作品・監督・男優・女優・脚色の各賞)を独占、コロンビア映画を一挙に業界大手に押し上げた、1934年の作品『或る夜の出来事』である。この作品は“スクリューボールコメディ”と呼ばれる恋愛コメディの先駆けとなり、大恐慌後の大衆の求める新たな娯楽作品として大ヒットしたばかりでなく、ウィットに富んで小粋で、そしてハートウォーミングな作風、いわゆる“キャプラ・タッチ”を確立した作品としても名を残している。フランク・キャプラは、その後も数多くの作品のメガフォンを取り続け、『オペラハット』(1936年アカデミー監督賞)、『我が家の楽園』(1938年アカデミー賞®作品賞・監督賞)、『スミス都へ行く』(1939)といった“キャプラ・タッチ”を極めた珠玉の名作を世に送り出した。

或る夜の出来事

或る夜の出来事

アメリカ /1934年 / コメディ ・ ラブロマンス

結婚を反対されて父親のもとを逃げ出した大富豪の娘、エリー。ニューヨークへ向かう乗合バスに乗車したエリーは、失業中の新聞記者ピーターと出会う。ピーターはスクープを狙って同行することにするが、世間知らずのエリーは行く先々で騒動を巻き起こす。初めは意地を張っていた2人であったが、旅を続けるうちに互いに惹かれ合う・・・。

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オペラハット 

オペラハット 

アメリカ /1936年 / ドラマ

田舎町に住むディーズのもとに、大富豪の遺産が転がり込む。ディーズはN.Y.にある屋敷に移り住むが、金目当ての連中やマスコミが集まってきて大騒ぎに。美人記者のベイブはディーズに接近し、彼の記事を書く事に成功する。ディーズは彼女が身分を偽っているとは知らずに愛し始め、ベイブもまた彼に惹かれていく・・・。

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我が家の楽園

我が家の楽園

アメリカ /1938年 / ドラマ

大富豪カービー家の跡取り息子トニーは恋人アリスの家を訪ね、自由奔放に暮らす彼女の家族に好感を持つ。その後、トニーの両親もアリスの家へ招かれることになった。だが、彼等はアリスのことを快く思っていない。ありのままの姿を見せて両親を納得させたいトニーは、わざと約束の日の前日に訪問することにした。これが裏目に出てしまい・・・。

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スミス都へ行く 

スミス都へ行く 

アメリカ /1939年 / ドラマ

ある州の上院議員が病死、ただちに後任議員の指名が行われることになった。陰謀を企てる州選出の有力上院議員ペインらは、政界の事情を知らないボーイスカウトの少年団長スミスを議員に祭り上げる。ところが、故郷ウィレット河の少年村の建設案をめぐって、スミスは彼らの不正に気づく。いったんは失望して帰郷を決意したスミスだが、秘書サンダースに激励され、翌日の会議でペインたちのダム建設案の不正を暴く勇気に満ちた名演説を始める。

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